しゃんぶろう通信

姫川みかげ です。ミステリやSFの感想など。

「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ(早川書房)★★★★★

わたしを離さないで

わたしを離さないで

自他共に認める優秀な介護人キャシー・Hは、提供者と呼ばれる人々を世話している。キャシーが生まれ育った施設ヘールシャムの仲間も提供者だ。共に青春 の日々を送り、かたい絆で結ばれた親友のルースとトミーも彼女が介護した。キャシーは病室のベッドに座り、あるいは病院へ車を走らせながら、施設での奇 妙な日々に思いをめぐらす。図画工作に極端に力をいれた授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちの不思議な態度、そして、キャシーと愛する人々 がたどった数奇で皮肉な運命に……。彼女の回想はヘールシャムの驚くべき真実を明かしていく――英米で絶賛の嵐を巻き起こし、代表作『日の名残り』を凌駕する評されたイシグロ文学の最高到達点(Amazonの紹介文より)。


名作との高い評価を耳にしていたのでかなりの期待を込めて読み始めましたが、そんな期待をはるかに上回る感動を与えてくれた1冊。抑えた筆致と静かな文体が深い感動となって心の奥底にまで染み通ってくる、そんな作品。評価は星5つでも足りないくらい。


キャシーはなぜ介護人の仕事をしているのか、提供者とは何なのか、彼女たちが生まれ育ったヘールシャムという名の施設は何を目的として存在しているのか…。残念ながら私は刊行後かなり時間が経ってから本書を読んだため(いろんなところで散々話題となったあとだったため)、本書がどんなジャンルに属するのかも、何をテーマに扱ってるのかもすでに耳にしており、上記の疑問に対する答に読んでいて驚きを感じることはできませんでした。この点については少し残念なのですが、幸いなことに本書は、徐々に明かされる「驚愕の事実」をサプライズ効果としてメインに据えたりはせず、あくまでも、こうした環境に生まれ育った主人公たちがいかに自分の「使命」を受け入れ、気持ちに折り合いをつけ生きていくのか、そうした複雑な心情を細やかに描くことを主題としており、だからこそ彼女たちの気持ちの奥底にひそむ深い悲しみを読んでいて常に感じ、心が揺さぶられずにはいられませんでした。


海外にいくことや、映画俳優になることや、きれいなオフィスで働くことや、その他様々な夢の数々。施設で暮らす主人公ら子どもたちはそんな夢が決して叶わないことにいつしか薄々気付いており、自分が何のために生まれてきたのかもいつのまにか知ってしまっている。だけど、長い年月をかけて徐々に受け入れたつもりでいても、やはりあきらめきれない自分に気付いてしまう。提供を延期してもらう可能性にすがる主人公たちが、あまりに哀れで悲しくそして愛おしくてなりません。そして命に優劣をつける理不尽さに(そして、自分に不都合なことから目を逸らすエゴに)物語であることを忘れ、読んでて憤りを感じてなりませんでした。


本書は、あまりにも特殊な設定のもとに書かれていますが、この物語の「一般人」と「提供者」という設定は、現実世界の「支配者」と「被支配者」、また「差別者」と「被差別者」という構図に置き換えてもなんら変わりはありません。彼女たちの悲しみは決して絵空事ではなく、一方的に命に優劣を付けられ、苦しみ、そして死を受け入れている人々は現実にいるということを忘れてはいけないと思います。


それにしても、この作品がほんとうに素晴らしいのは、単に悲しみを描いているのではなく、こんな過酷な運命にあってなお(限られた「生」にもかかわらず)、生きることの意義を、そして喜びを主人公の気持ちをとおして感じさせてくれること。ささいなエピソードをいくつもいくつも細やかに積み重ねることによって、静かに染み込むように主人公の気持ちが心に伝わってくる…。カズオ・イシグロはすごい、本当にすごい。カセットテープを聴きながら「わたしを離さないで」を踊るキャシーの姿を、そしてルースやトミーとともに座礁した船を見に行った時の光景を、私はいつまでも忘れないと思う。私にとって、オールタイムベスト級の傑作です。(評価:★★★★★)